上海散見

機体に「東方航空」と赤く書いた航空機が十四番ゲlトの前に横付けになると、大きいトランクや、土産物をいっぱい詰め込んだ買い物袋を持った乗客が、、ソロゾロと下りて来た。中には子供もいるし、赤ちゃんを抱いた若いお母さんもいる。私は彼等を見て、無事に帰れてよかったなあと羨ましくなった。無事に帰れればよいがと思いながら入れ替って搭乗した。
機内は薄暗かった。両窓側に二人掛けの椅子、真中に四人掛けの椅子が三十列ばかり並んでいた。ブルーの制服を着た大柄なスチュワーデスが四人で、全く事務的に案内をしながら世話をしている。たちまち満席になった。
ちょうど予定より一時間遅れて滑走を始めた。「恒子行ってくるよ」と目をつむって心の中で挨拶した。
私の席は四人掛けの中ほどだった。その左隣に添乗員の西嶋さんが座った。これは何かと都合がよかった。
ガタンと振動すると、フワリと浮いた。離陸の瞬間である。揺れながら急上昇する。あまりいい気持ちはしない。時々左右に大きく傾くと、このまま落ちるのではないかとハラハラする。二一分くらいで水平飛行に入った。
すぐ機内食が出た。うまい。全部食べた。どうして機内食はおいしいのだろう。私は機内食が旅行の楽しみの一つになっていた。
十八時三十五分、無事上海空港に着陸すると、思わず「良かった」とホットした。一時間遅れて離陸したが、四十五分遅れただけで着いたわけだ。
エアターミナルは新しく、総ガラス張りで気持ちがいい。エスカレーターで下りて、荷物の受け取り口へ行く。回転ベルトに乗せられて、私たちのトランクが出て来たのは、二十分くらい待たされて一番最後だった。
中国のガイドさんが二人で出迎えていてくれた。一人が「王と申します。北京までの全行程のお供をさせていただきます」と流暢な日本語で自己紹介をした。三十歳代の小柄なガッチリとした体格の見るからに還ましい男だった。
外はどんよりと曇っていた。エアターミナルの前の広場は工事中で、あっちこっち掘り返され、土を積んだトラックが走り回っていた。日本なら工事現場の目隠しにシlトを張るが、竹で編んだアンペラのようなものを張つであったのが、中国らしく、珍らしかった。
私たちは待っていたマイクロバスに乗った。道の両側からプラタナスが枝を張り出して、トンネルのようになっている下を走った。
もう薄暗くなっていたのに、まだ街灯、がついていなかった。バスも車内灯をつけないで走っている。自転車に乗った勤め帰りの人たちが街にあふれでいた。シグナルも見当らない。十字路に人垣ができていたので、窓に顔を寄せて見ると、自転車と自動車の衝突事故らしかった。
薄汚い路地を通る。裸電球を吊り下げて果物を売っている露店、が、ところどころに出ていた。リンゴやバナナを台の上に並べ、地べたにアンペラを敷いて、その上に野菜を積んでいる。街、が暗いので裸電球が明るく、よく目についた。ガイド氏が元フランス租界だと言ったがすぐ元イギリス租界に入った。
バスが上海友誼商店の前に止まった。この前に来たとき、入った記憶がある。赤い械墜を敷いた階段を登った左側に両替所があり、私はとりあえず四万円を両替した。中国のお札がいっぱいきた。
店内は主に紫檀や黒檀で作った高級家具や繊越が並べてあり、民芸品や装身具や文一房品は奥の方にあるはずだが、二十分くらいですぐ店を出た。マイクロバスに乗り込んで店を見たら、もう店内は電灯を消して暗かった。
今晩は日航ホテルに泊る予定であるが、夕食は錦江飯店でとった。ここは田中角栄さんや中曽根康弘さんが訪中された時に泊られたホテルだという。
私たちが入った食堂は、丸いテーブルが五、六個並べられた小さい部屋だった。その丸いテーブルを囲んでみんなが椅子に座ったとき、スラリと背の高い、金糸で刺繍をした赤いチャイナ服を着た断髪の若い女性が、隣の部屋から入って来て、私たちを無視するように、脇見もしないで次の部屋へ消えて行った。
「まあキレイ」と同行の女子大生たちがいっせいに溜息をもらして見とれていた。なにさ。私はそう思ったが黙っていた。

三月七日六時に起きる。カーテンを開けると、どんよりとした曇り空である。霧雨のようでもある。下着のまま廊下に出て、三、四室通り過ぎ、非常口のドアーを押して外へ出てみた。二階建のビルの向うに、中国風の棟の両端がピーンとそり返って、勾配が急な屋根が三十棟ばかり並んでいた。
「これは絵になる」そう思って画用紙を取りに一炭ってみると、部屋のドアーに鍵が掛かっていて、なんとしても聞かない。自動ロックのドアーなので、部屋を出る時は必ず鍵を持って出るようにと注意されていたのをすっかり忘れての失敗だった。仕方がない。下着のまま他の宿泊客に見つかるのを恐れながらエレベーターで一階まで下りて、フロントへ行き、四一二号室の合鍵をお借りしたいというと、若い中国人の女性職員が、このお客も合鍵を借りに来たな、と言わんばかりの顔をして、「わかりました、すぐ行きます」と徴笑みながらたどたどしい日本語で答えてくれた。その様子からすると、こんな失敗をするのは私だけではないらしいとわかり、いくぶん気が楽になった。先にエレベーターで昇り、部屋の前で待っていると、さっきの女性が来て合鍵で開け、「どうぞ」と言ってすぐ帰っていった。紺の制服に白い襟を付け、魅力的な歩き方をするのが目をひいた。
いつでも出発できるように仕度をしてから、サム・ホール版(官製ハガキ二枚大)の画用紙に鉛筆で部屋から見た風景を二枚、先程の非常口のテラスから見た風景をコ一枚、大急ぎでスケッチした。
七時二十分になった。トランクを廊下へ出して、一階の食堂へ行く。ほかの団体客が四、五名で朝食を食べていた。私は窓側に席を取り、ボーイさんがくるのを待ったが、なかなか来ない。そのうち新潟から来た同じツアlの女性が二人やってきた。そうして彼女たちは私を見つけると、同郷のよしみか私が座っていた卓の椅子にバッグを置くと、朝食は「バイキング方式ですよ」と注意をしてくれた。そうだつたと気づいて料理が並べられてあるコーナーへ一緒に行き、大きい皿を取ってパンゴ一個と野菜の妙めたものを取った。珍らしかったのは三月というのにもう西瓜と瓜があった。西瓜はあの厚い皮を切り落して小さく切つであった。赤味、が足りなかったが、それだけ甘味も足らず、青臭くわずかに西瓜の香りがしただけであった。
私たちが食べている聞に同行の女性たちが揃った。八時半、マイクロバスで市内観光に出た。道路のあっちこっちに水溜ができていた。昨夜は大分降ったらしい。
まず玉仏寺へ行った。ビルマから渡来したという大きな玉の仏像が安置されてあった。座った姿、形は日本の仏像と同じだが玉は白々として、そのうえ目をばっちり見開いているのが、どうも異様で荘厳味がないように思われた。そのことを率直にガイド氏に言うと、ガイド氏は目を見開いているのは、今衆生に仏法を説いている姿を現したものであると説明をしてくれた。なるほど、いま、信者に語りかけている姿なら目を開けているはずだ。そう納得したものの、やっぱり目を閉じて、膜想に耽っている日本の仏像の方が奥床しく、荘厳味があるようだ。境内はお祭でもないのに参拝者で混雑し、線香の煙がもうもうと立ち込めていた。それだけ日本人より信仰が厚いのかもしれない。
次に行ったところが外灘である。黄浦江岸の公園で、戦前「。ハンド」と言われ、日本の演歌にも歌われた場所である。外白渡橋はすぐこの先にあるはずだ。イギリス租界当時、橋の検に「犬と支那人は渡るべからず」と、立札が立っていたという「ガーデンゃブリッジ」である。ゼントルマンなどと紳土面をしている彼等は、当時、支那人や東洋人を犬同等の人種と平気で人種差別をしていたのである。
そのくせ彼等の中には掛算ができない者が大勢いたという。前回来たとき、その欄干にもたれて黄浦江を航行する貨物船、遊覧船を見ながら、しばらく中国五千年の歴史と、近代史に思いを馳せながらしばらく行んだ記憶がある。ガイド氏、が説明をしている間クロッキーを三枚描いた。バンドを、手をつないだ若い二人連れが行き来していた。
南京東路の和平飯店の前を通り、待たせてあるパスまで歩く。高級衣料品、宝石店、土産品店が並んでいる、中に入って見る時間はない。
強固へ行く、明時代の高官が作った邸宅を見学する。庇が突き上った楼閣が二万平方メートルの敷地につぎつぎと建てられ、庭には太湖の底から引き上げた奇怪な形をした高価な庭石がふんだんに使われている。眺めているうちに、中国の庭園というのは、あまりにも人聞が造り上げたという感じが強く、ゴチャゴチャしていて、広い庭をむしろ狭くしているのに気がついた。ここの内庭を囲んでいる塀の上を、のたうつように這い回っている龍を指さしながらガイド氏、が面白い話をしてくれた。
「その頃、龍は皇帝の威厳を誇示する仮空の動物として、どんなに高位、高官でも使うことは許されなかった。この禁制を犯せば直ちに一族郎党は新首の刑に処され、資産は没収された。ところがこの邸宅を築いた高官は、こともあろうに来客の目に触れる塀垣の上に使ったのである。喚問を受けたのは当然である。高官は取調官に対し、臆することなく、「龍は爪が五本あります。塀の上を這っているのは爪が三本しかありません。従って龍ではありません」と答えた。この答弁で高官は無罪放免になったという。それから庶民の聞に三本の爪の動物を使うようになったという。そういえば日本の神社では龍を彫った飾りが掲げられている。私達はそれを龍と呼んでいるが、中国の論法でゆけば爪が三本しかないので龍ではないということになる。中国には詑弁というか、この類の話がたくさんあって面白い。
実は私は五本の爪を持った青龍を描いた煙草ケlスを持っている。銀製で外側は黄色い唐草風の真中に青龍が浮き出るように描かれている七宝焼で、色彩が鮮やかで明快である。若い頃、召集令状を貰って入隊するまで母校(中央大学)に勤めていた。そのとき総長の林頼三郎先生(司法大臣、枢密顧問官)から頂いたものである。先生は下さる時、蒙古の独立運動家徳王が来日したとき徳壬から貰ったものだとおっしゃった。なるほど内側に「成士口思干紀元七百三十六年、蒙古連合自治政府、主席、徳穆楚古棟魯普」と彫られてある。
一日五、六十本も吸っていたヘビ!スモlヵ!の私が、ある時その煙草入れを出すと、漢文の先生が「ちょっと見せて」と言って、手に取ると「これは紫禁城から出た品でしょう」と言われた。さすがに目が高いと思ったが、何分にも重くて実用にならない。今は総長閣下から拝領した品であるということだけでも家宝として秘蔵している。
強固は、日本でいえば浅草のようなところで、庶民の街である。連日のように市民が集まって来る。迷子にならないようにとガイド氏はなんべんも注意をしながら振り返って人員の点検をしていた。こういうところへ来るとガイドという仕事も大変だなあと思った。昼食はその街の中の新彊友誼賓館でとった。店内も混んでいたが、予約をしであったので私たち一行十一名の席は準備されていた。隣の卓にやはり日本の観光団が十五、六名いたが女性は二人でみんな年輩者だった。ここで出された麺が一メートルもある長いものでうまかったので、今でもときどき思い出す。
機体に「中国民航」と行書風の見おぼえのある書体を胴体に書いた小型機に搭乗して上海を飛び立ったのは、予定より五十分も遅れた十四時四十分であった。離陸するとすぐパック入りの葡萄シユースが配られた。相変らず配ってくれるスチュワーデスは大柄で、微笑をどこかに置き忘れて来た女性たちだった。わざわざお世辞笑いはしなくとも、女ならどこかに女らしい仕草というものが自然に出るはずだが、それが全くない。男女平等、服務第一とよくもここまで教育をしたものだと感心した。ジュースは冷えていてうまかった。
次に折詰の弁当がでた。肉は羊らしいと同行のお嬢さん達が言っていた。ウルムチまで五時間の航程だという。たとえ小型機であろうと五時間である。日本なら北海道の北の端から、沖縄の南の端まで飛ぶくらいの距離だ。バッグから井上靖先生の『私の西域紀行』を出して読みはじめたが、いつの間にか眠ってしまった。アナウンスの声で目を覚ますと、小箱に入った乾葡萄が配られてきた。小粒だが仲々うまい。
天山が見えると騒ぎ出して、みんな窓に顔を寄せた。陽は傾き、逆光の中に白い山並が果しなく続いている。名もない五、六千メートル級の嶺々がいま眠りに入ろうと静かに横たわっている。横たわるというより、広がっていると言った方がよい。どうしたわけか、窓から覗く真下の付近だけが夕陽を受けて僅かにピンク色である。私は若い時から天山という言葉の響きに異常な興奮を覚えた。天山の南麓は遊牧地が広がっており、汗血馬に跨がって遊牧民が駆け回った草原があるはずだ。日本民族はこの草原に生活した騎馬民族の後奇だという学者がいる。子供の時から馬が好きだった私のルーツは、案外これから行くウルムチ付近にあったものかもしれない。天山の向うはアジアの屋根といわれるパミール高原である。その南がヒマラヤ山系で、日本の総面積の三、四倍の地域、が万年雪におおわれているのである。これでは黄河の水も揚子江の水も昼夜間断なく流れていようとも潤れる心配はない。

左側の列の前座席にレ1ニン帽をかぶり、髭面で目玉を大きくむき出しにして、色が浅黒い四十前後の男が乗っていた。横顔が立派だった。画用紙を出して描かしてくれというと額いた。手早く書き始めると、みんな覗きに来て、「私も描いてもらいたあ!い」とお嬢さんたちがいう。マアマアの出来だ。名前はと聞くと私の鉛筆を取って乾葡萄の箱に「支山」と書いた。草冠にパッテン印のこんな漢字は初めて見た。なんと読むのか、私がそのまま真似て「支山先生像、T-YUGAWA 91・3・7とサインをして渡すとニッコリとして受け取り、私の方を見てなんべんも頭を下げた。ガイド氏はウィグル族の男だと言った。
みんな安全ベルトを締め始めた。いよいよウルムチに着く、雲海に入ったのか視界は真白だ。雲の切れ間から見える天山の山々は夕陽に映えてピンク色に輝いていた。

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