流れ豊かなアムール

博物館を出ると、今にも降りそうな雨雲がどんよりと垂れ、空気はヒヤリとして冷たかった。これが六月も半ばを過ぎたシベリアの気候である。われわれはガイド氏の後からブラりブラリと土手を登った。道がついているようでついていない。柔らかい土の感触が足の裏から伝わって来て気持ちがいい。登り切ったところは展望台になっていた。展望台の真下三十メートルのところをアムール(黒龍江)が流れ、ようやく緑がかつてきた対岸は、文字通り一望千里の草原で、その果ては雨雲の中に解け込んでいた。僕は一、二度大きく息を吸って深呼吸をした。ここにも拳を振り上げた男の大きい銅像、が立っていた。ガイド氏が「コレハ千九百十七年ソビエト共産党ヲ指導シテ……」とまた始めた。そのあとは聞かなくともわかっているので、一行から離れ、雨雲を映すアムールを鉛筆の先に情感をこめてスケッチを始めた。
アムールは、興安嶺の奥地から中ソの国境を画しながら延々と流れて来て、今僕が立っている展望台の下を抜け、更に北上して日本海に注ぐ、ソ連ではヴォルガに次ぐ第二の長江である。アムール、この美しい響きをもっ言葉は中国語でもロシア語でも蒙古語でもないと考古学者はいう。
アムールという言葉を使っていた民族は、アムールという言葉一つを残して滅んでしまったという。そうして、その民族を滅ぼした民族の名も今ではわからない。それは三百年前、この地にスラブが入ってくる以前五、六千年も前のことだという。壮大な歴史のドラマというほかない。ガイド氏の講義が終ったらしい。一行はガヤガヤと僕の後ろに寄って来た。「カスンデミエルヤマ、チュウゴクデス。六十キロメートルアリマス」とガイド氏が説明した。
あの山が中国、旧満洲の山か。僕は鉛筆を持つ手を休めて見入った。懐かしい思い出がよみがえってくる。それは戦中つまり、当時ソ満国境と呼ばれた頃、僕は国境警備兵としてあの山の麓に青春の数年を送っていた。赤い夕日が沈むと、兵隊達は酒保(軍隊内にある売店)に集まって来て、よく飲んだ。わずか一杯の酒で自らを慰め、やるせない青春の悩みと切ない望郷の思いを込めて、最後に歌うのが黒龍江(アムール)の歌であった。題は忘れたが歌詞は覚えている。

流れ豊かな黒龍江の、
水を鏡にひげ面剃れば、満洲娘も一目ぼれ

だがその実、歌う兵隊の中で誰も黒龍江(アムール)を見た者はいなかった。ソ連を刺激しないようにという軍の命令で、数キロ後方に駐屯させられていたからである。だから僕にとって黒龍江(アムール)とは今まで青春の思い出をたっぷりと含んだ幻の河であったわけだ。その河が今立っている展
望台の下を、音もなく静かに流れているのである。三十数年前の思い出があれこれとつぎつぎに、まぶたに浮かんでは消えて行く。感激というほかない。
岸辺にボートが繋がれているが人影は見えない。肌寒いこの気候では、さすがにシベリア子もボート遊びでもないらしい。
みんなシャッターを切り始めた。僕も8ミリを出すと、再び見ることがないであろうアムールを、ゆっくりと時聞をかけて撮った。いつの間にか迎えのパスが来ていた。
ホテルで昼食をとるとすぐ出発した。二時発タシケント行の飛行機に乗る前に日本人墓地にお参りするためである。旅行の計画になかったが、昨日夕食のとき、折角の機会だ、この地に眠る日本人将兵のお墓にお参りをしようと提案して、賛成を得た。途中花屋に寄って生花を一対買った。
墓地は雪解の泥浮をパスに揺られながら走った、郊外のうら寂しい林の中にあるロシア人墓地の奥にあった。およそ三百坪くらいの敷地の入口に「日本人の墓」と一メートルくらいの石碑が鉄柵に囲まれ、その左隣りに埋葬された将兵の氏名が銅板に彫られ、H慰霊昭和年月日OO県遺族会」と墨書された三メートルくらいの標柱が五、六本立っていた。
同行中の最年長のY氏が花束を捧げ、私が持参した線香を供えると一同が深々と頭を垂れた。
将校とおぼしき遺体は一体ずつ、兵士は数体ずつ埋葬されていた。今では銅板の氏名と遺体を符合させることは無理だろう。
終戦時満鮮の混乱を思い出しながら、ゆっくりと埋葬されている区画の聞を歩いた。ソ連軍に連行され、シベリアで飢と寒さと屈辱に耐えながら奴隷の如く酷使され、ついに力尽き、故国を夢見ながら他界した将兵の無念さはいかばかりだっただろう。淋しかっただろう。寒かっただろう。できれば掘り起して連れて帰りたかった。
ようやく春めいて来てはいたが、墓地には春の野花はまだ一輪も咲いていなかった。

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