第一作

現地時間五時三十分、香港空港に着陸した。タラップを下りてゆくと、赤い帽子に赤い上衣、赤いスカートをはいたお嬢さんが三、四人、真白い手袋をはめてホンコン、ホンコンと言いながらつぎつぎに下りてくるお客にパンフレットを渡していた。私は「いらない」と言って貰わなかったが、恒子はもらってきた。見ると漢字だけの中国語で、中には新中国になってから略字化された今まで見たこともない活字もあって、何が書いてあるのかさっぱりわからない。熱海や伊東の駅前に旅館の名を書いた小旗を持って並んでいるあの客引きの類であろうか。空港には日本航空、英国航空の飛行機が翼を休めていた。尾翼に赤い鶴のマークを入れた日本航空の飛行機がもう懐かしく見える。羽田を飛び立ってまだ僅か三時間、ヨーロッパに着いたわけでもないのに日本航空のマークが懐かしく見えるのは、やっぱり異国の土の上に立ったからであろう。空港の端に大きい川が見え、黒い貨物船が停泊していた。川の向こう岸に白い高層ビル、が数棟見える。ビルの後ろに鋭く切り立った山の稜線、がタ需の中に紫に震んでいる。その形、その色、南画そのままの風景である。
タラップのすぐ横にバスが止まっていた。われわれはそのパスに乗った。パスは外装も内装もグリーンに塗装されており、床が低くしかも入口が踏段式ではなく、傾斜しているのでごく自然に歩くままに座席へ行ける。日本もアスファルト舗装が完備して、でこぼこの道がなくなったので、みんなこの式にすれば、年寄りゃ、子供や、車椅子の人でも楽に乗り下りができるのにと思った。
ターミナルに着いて、一階の広い殺風景な待合室に二、三十分待っている聞に私は、スケッチブックを出して、この旅行の第一作を描いてみた。そこへ山田氏が来て、これから乗る飛行機の搭乗券を渡した。恒子が29p、私が29E席である。渡し終ると山田氏はわれわれ一行を二階の休憩室に案内し
た。陽はようやく沈みかけてきた。休憩室の窓から見える空港の向こうの高層ビルに灯がつきはじめた。「香港の夜景」である。
休憩基一で私は、今描いたスケッチ二枚に着彩しようと思ってパレットと筆を出し、さて筆洗いの缶を開けようと蓋を回したが、錆び付いていてどうしても回らない。仕方がない恒子が化粧道具を入れてきたビニール袋を借り、水を入れて使った。豊かな震を蓄えた外人がしばらく見ていて何か言ったがさっぱり分からない。「ノウ・スピーク」と言うと「ベイリ・グッド」と言った。この震の男が連れていた入、九歳の男の子を見て恒子が「可愛らしい」と言った。見ると瞳がやや青みがかっていたが色が白く、丸いその顔はボク(長男の将)がその年頃の時とどこか似ていた。日が暮れて恒子はボクや越子のことを思い出していたのかも知れない。
着彩の終るのを待って恒子が、飛行機の中でメモをしていてシャープペンシルを壊したので、売っていないだろうかと言った。私は休憩室の片側にズラリと並んだ売店を見て、「あそこにあるよ」そう言ってバッグを京都のおばさんに頼んで恒子を連れて行ってみた。万年筆を並べた売店の売り子は、背が高く、茶色の髪をしていた。英国系かも知れないと思いながらシャープペンシルを並べたガラスケースを見ていたら棚から一箱出して、私と恒子の前に置き「これ安いよ」「四ドル何セントよ」と言う。私と恒子は同時に顔を見合わせながらすぐ日本円に換算して千三、四百円か、高い、日本なら二、三百円の品だ、そう言い合って「ノウ・サンキュウ」と言って隣の宝石店を覗いた。主にひすいの指輪、ペンダントで、象牙に彫り物をしたペンダントもあった。英国領香港とはいえ、いかにも中国風である。みんな高い、とても手は出ない。見るだけだった。
ベンチに戻ると外はすっかり暗くなっており、滑走路を示す電灯が一列に輝いていた。よく絵葉書で見る美しい香港の夜景はこの休憩窒からは見えない。着彩していた時から気付いていたのであるが、部屋には物悲しい中国風のメロディーが小さい音で流れていた。
飛行機の中では隣り合わせに乗り、先程はバッグの番を頼んだおばさんと話し込んでいた恒子が私に、「このおばさんは新潟の柏崎の方だそうよ」と、さもうれしそうに言った。異国で同郷の人に会って心強く感じたのだろう。「羽田空港のカウンターで初めてお会いした時は、たしか京都から来たとおっしゃったようですが」と私が言うと、おばさんは「柏崎に生まれ、大阪へ行って、今は京都に住んでいるんですよ」と身の上話を織りまぜて若干の経歴を話された。飛行機の中で歳を聞いた時明治四十二年生まれですから六十何歳でしょうかと笑っておられた顔は簸くちゃであったが、なかなか意欲的に何でも見てやろうと、しょっちゅう窓を覗いておられた積極性には、私も恒子も驚かされた。
「トイレはどこよ」と恒子が聞いた。向こうだ。左側の隅を指差した。僕も行った。日本のデパートやピルのトイレのようにドアーに黒い山高帽をかぶった男のシルエットがマークされ、ゼントルマンと英語で書いてある下に「男界」とある。男界とは面白い表現だ。たしかに女人禁制の男界に間違い
ない。用を済ませて手を洗っていると紺の作業服を着てモップで床を掃除していた三十五、六歳の男が寄って来て、軽く私の腕を叩いて、石けんのタンクを指差し、石けんで洗えと言って自分で石けんを出してくれた。石けんで洗っていると、こんどは水道の栓を捻って水を出してくれた。水で洗っていると棚からタオルを出して、これで拭けという。タオルはクリーニングがしであって、真白で清潔だった。私が手を拭いていると、その男はポケットから銅貨を五、六枚出して数え始めた。私がサービスが良いのもそのはず、彼はチップを要求するゼスチャーをしたのかと思いながらも、どのくらい出したら良いのかと思って、「チップ」と聞いてみると、手を振ってドアーの方を差した。どうぞ、休憩室へという意味だ。中国人であるなら、日中戦争を知っているはずだ。私がベレー帽に付けていた日の丸のバッジを見てどう思っただろうか。いやそんなことは考えていないのかも知れない。彼は単に自分の職務としてそうしただけなのかも知れない。私は休憩室に戻り、ソファーに掛けてからも、今の男のことを考え、何か済まないことをしたような気持ちでなかなか落ち着けなかった。

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