エルサレム新市街

午後二時、バスに乗って出発する。起伏の多い街を四、五分走る。やがて右側に真新しい七、八階建のでフライ大学があったが、植込みで校庭は見えない。学生の姿も見えない。春休みなのだろうか。静かな環境である。
大学からすぐの同じ右側にメーヤ首相の官邸があった。四、五階建の建物は石積で、日本の小さな公団住宅に似ていたが庭は芝生が植え込まれているだけで狭く、立木は一本もない。護衛の警官らしい姿も見えない。その質素さに驚いた。官邸の裏側が国会議事堂の正面入口になっていた。私達のパスはその前に止まった。
イスラエルは現在、人口二百五十万人、国会議員は百七十名だという。片目に眼帯をしたダヤン国防相は六日間戦争で一躍この国の英雄になった。議事堂は三階建で四角形に造られ屋根は平らだった。

何を意味するのか門扉は不等形を連ねた鉄骨に黒い塗料が塗ってある。正面玄関まで百メートルくらいの両側に三メートルくらいの高さに刈り込まれた太い幹の木が植えられていた。どんな経歴と顔ぶれの議員がいるのだろうか。私が知っている閣僚の名はメーヤ首相とダヤン国防相だけである。
議事堂の門一扉の前の砂礁の山を三十坪ばかり削って石積みの土留めをし、その真中に三メートルくらいの銅の燭台が立てであった。その燭台は七枝に分かれており、各校にユダヤ教に関係する聖像が浮彫されていた。ガイド氏の説明によると、この燭台は英国にいるユダヤ人の団体から寄贈されたも
ので、七枝にも意味があって、これがイスラエルの象徴になっているのだという。背後の砂醸の山は、いずれ整地され国家機関の建物が建設される予定だという。私と恒子はこのイスラエルの象徴に敬意を表して、その前に並んで記念写真を撮った。
ホテルで買ったイスラエルの煙草を出して火をつけ、一口吸って脇を見ると、四十五、六の男が一人歩道に尻をついて、足を投げ出していた。その傍に松葉杖が一本置いてあり、ベニヤ板に例のへライ語で書いたプラカードが石積みに立てかけてあった。誰かの話では「先の戦争に出て負傷したが、政府は何も補償をしてくれない」と書いてあるのだという。グループの誰も彼に恵んでやろうとはしなかった。ガイド氏も彼について何も説明をしなかった。
次に案内されたのがシオンの丘だった。ユダヤ人の団結と、イスラエルの建国を提唱したシオンの墓地である。大きい石の門を入ると砂礁の山は石積みで土留めをされ、正面にオリーブや松が植えられて、花壇には紫や黄色や赤紫の花を付けたパンジーが植え込まれていた。
玉砂利を踏んで左へ行ったところに石段があって、下りて行くとシオンの記念館が立っていた。中に黒い法衣を着た案内人がいて、種々説明をしてくれたが、さっぱり分からない。シオンの写真、著書、手紙、衣服、日用品などがガラスケースの中に飾られ、彼が使った机や椅子などもあった。椅子は古風な形であったが本皮張りで、豪華なもので、彼の生前の生活の高さが偲ばれた。出口にサイン帳、が備えてあったので「昭和四十七年三月七日、日本国、湯川十四士、匡子、ここを見学す」と署名して出た。
記念館から石段を登り、左側の松やオリーブの聞から蓬かエルサレムの街を見下ろしながらダラダラ坂を百メートルほど登ると、広大な平地に出た。エルサレム全市が見下ろせる。正面奥にシオンの墓石が立っていた。私達はその墓石のそばまで行ってみた。空は真青に晴れ、爽やかな風が坂道を登って来て、少々汗ばんだ顔に心地よい。日本なら緑の風というところである。建国後第一回の国会で一番先に満場一致で可決された法律が、それまで外国にあった彼の遺骨を迎えてここに祭るということであったという。つまりイスラエル独立の父になったのである。
私はその丘の上に立って、四方に起伏する砂礁の山を眺めながら、ここに道路をつけ、水道を通し、新しい街*つくり、国守つくりをしているこの民族の多難さを思わずにはおれなかった。ただし、この民族にはそれが喜びであり、誇りであり、そのままそれが安住の地を得ることでもあるわけだ。私達が
石の門を出ると四、五台のバスから下りて来た観光の一団が私達と入れ違いに入って来た。

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